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李 忠(り ちゅう、? - 43年)は、後漢の武将。字は仲都(ちゅうと)。東萊黄(山東省竜口市)の人(『後漢書』列伝11・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第25位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 == 事跡 == 元始年間(1年 - 5年)に高密国の郎となる。王莽の世に新博の属長(新制。漢制の信都郡の尉に同じ)となる。 更始1年(23年)、劉玄が更始帝を称すると、李忠を信都郡の都尉に任命した。 更始2年(24年)、薊県から逃れてきた劉秀を信都太守の任光・令の萬脩らとともに迎え入れた。右大将軍を拝命し武固侯に封じられ、鉅鹿の王郎軍に対する包囲戦に参加した。この頃、信都が王郎の勢力下に入り、李忠は更始帝軍と共に信都に向い、太守を代行する。劉秀が信都郡を奪還し、任光が太守に復帰すると李忠も都尉に戻った。 建武2年(26年)、代わって中水侯に封じられる。五官中郎将に任命され、山東の軍閥・龐萌や董憲らを平定した〔『後漢書』李忠伝は、李忠が龐萌・董憲らを討った事件を建武2年のこととする。しかし、光武帝紀・劉永伝・王梁伝・馬武伝では、劉秀の部将であった龐萌が造反して董憲に付いた事件を建武5年のこととし、蓋延伝でも建武4年以降の事件として記する。〕。 建武6年(30年)、丹陽太守に移る。長江・淮水流域の沿海部に土着する勢力を討ち、住民の教化・戸籍登録に務めた。墾田は拡大し、戸籍に登載された流民は3年間で5万余口にのぼった。 建武14年(38年)、三公が李忠の治績は天下第一である旨上奏した。その後に予章太守に移る。病により引退し、洛陽に召される。 建武19年(43年)、逝去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李忠 (漢)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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